
思い出文集
ペットピア創立10周年記念「思い出文集」発行にあたり、沢山のご応募を頂きありがとうございました。
お寄せ頂きました作品の中から、以下の作品が掲載作品として選ばれました。
今から4年前まで我家で暮らした愛犬キャバリアとの生活を記させてもらいます。 突然相談もなく動物嫌いの娘が犬を飼うことにしたと言われ私達夫婦は驚きました。 動物を飼うということは、一生面倒をみてやらないといけない大変な事。 でも、もう予約してるのでいいでしょうと不安がありましたが我家に丸々した男の子犬が来ました。 まだワクチンが残っていて散歩もできない頃で私達も定年前でしたので2ヶ月間は一人で留守番をさせるようになり、おしっこ、うんちも何のしつけもしていない状態でそれはそれは大変でした。 そのうち私達も仕事を離れて犬との生活が始まり、家族の一員となりました。 犬は言葉が話せなくても飼主の言葉は理解できるようで嬉しい時は尾をいっぱい振り、愛情表現をしてくれ人間と喜びも悲しみも共有できる事を知り娘も嫌いだった犬の可愛さが分かり良かったです。 しかし年を重ねるにつれ、腎臓を悪くし、十年足らずの命であっという間に天国へ逝ってしまい、悲しくて悲しくてなりませんでした。 最後はペットピアさんで、お世話になり、娘と2人で骨を拾い、ペットピアの方が、これが身体のどの部分でと説明してくださいました。 また、供養祭にも出席させていただき、ペットも人間と同じように大切に扱っていただき感激いたしました。 3年間は遺骨を居間に置いて水と好きだったフード等々お供えして家族のそばにいましたが、今は我家の庭で安らかに眠っています。
初めてジュリアに会ったのは某ペットショップ。 二匹いたミニチュアダックスでどちらを飼おうという事になり、私はチャコタンのジュリアを選んだ。 とてもおとなしく上品に見えたジュリアは家に連れて帰ると今までおとなしかったのが演技だったかのように走りまわり、いろんな物をかじり、やんちゃぶりを発揮。 その変貌ぶりに笑ったよ。 翌年、チワワのリンを連れて帰ると二匹でじゃれ合って遊ぶようになった。 かと思えば本気でケンカをしたり、トイレ以外でオシッコやウンチをし、なわばり争いを始めた。 「こら!だれがしたん!!」と大声で叫ぶとリンは飛んで逃げ、ジュリアは申し訳なさそうにゆっくり逃げてたね。 お風呂場の前にあるマットにいつもしていたのはジュリアだったんだね。いなくなって分ったよ。 お手、おかわり、ゴロンが上手で、「バン!」と指で撃つマネをしたら、お腹を見せて寝転んで死んだフリをするのが得意で・・・ 「お散歩行こうかぁ」の言葉を聞くと飛びはねて喜んだね。 ジュリアが死んでしまう一週間前に「お散歩にいこうか」といって喜ばせておいて、リードが見当たらなくて「ジュリアちゃん、また今度ね」って言って行かなかった事を今でも悔やんでるよ。 どんな事をしても行ってあげればよかった。 春の陽気の中嬉しそうに歩くジュリアの姿、見たかった。 死んでしまうなんて、まだずっと先だと思ってた。 また散歩はいつでもいけるって思ってしまった。 本当にごめんね、ジュリア。 「ジャーキー」や「ええ子じゃなぁ」とか人間の言葉がよく分かる頭のいい子だったね。 私が泣いてる時は必ず顔を必死でなめてなぐさめてくれて遅く帰ってもおきて嬉ションして出迎えてくれ、息子を自分の子供だと思い込み守ってくれた。 ジュリア有難う。
調子が悪くなって病院に行き始めて一週間最後手術したけど、天国に逝ってしまった空。 あと一ヶ月で6歳のお誕生日だったのにね。 胆のう炎、直前まで症状がなくてチワワのような小型犬の手術は難しく、生存率の低い病気。 6日間も毎日ずっと痛くて辛かったのにその小さな小さな体で何とか手術に耐えたね。 麻酔から中々醒めなくて、あたしが呼ぶと少しだけ目を開けてくれたね。 絶対に諦めず懸命に生き様としていた空。本当にえらかったね。 翌朝容態が急変して病院に着いた時にはもう空の心臓は止まっていて、まだ温かかった。 体にいっぱい付いていた器具が全部外され小さな箱に入れられてお家に帰ったね。 胆のうはもう破裂していて酷い状態。そんなしんどくて痛かったのに本当に頑張ったんだね空。 多分あたし一人を残して死ねないって思ってすごく頑張ったんだね。 いっぱいいっぱい、ありがとうね。ごめんね。 色んな人に沢山愛されていた空ちゃん。 もう痛い思いも辛い思いもしなくて大丈夫だから。 天国でゆっくり眠ってね。 空はあたしの中でずっと生きてるから。
あなたは神の使いだったのではと思ったくらい不思議な猫だった。 私の日常の会話を全部聞いて理解していたのか最後には、ちゃんとお別れの挨拶とお礼を態度で表してくれたね。 グレイちゃんの気持ちがとてもよくわかって感動したよ。 生き生きした花が大好きで、頂いた花束を置いていると、さっさと食べに行って叱られたね。 こんどは、いっぱい飾ってあげるから食べていいよ。 暗闇で、しっぽを踏んでしまった時「ふぎゃあ。」と声をあげた事が、たびたびあったね。 「ごめん、ごめん、わからなかったんよ。痛かったろう。」と言うと「いいよ。大丈夫。」と見上げてくれたね。 やさしいグレイおじさん役で孫達の成長を一緒に見守ってくれたね。 グレイちゃんがいなくなって、とても淋しくて悲しいけど、いっぱい思い出を残してくれたから、また家族みんなで頑張るね。 ありがとうグレイちゃん。
レナ。雪の降る寒い夜、父さんが野良犬だったあなたを連れて来た日、家族皆で大喜びしました。 まだ小さかった子供達と、庭ではしゃぎ回ったのを覚えていますか? その日、夕食の鶏のから揚げを、おいしそうに食べたよね。 だから、鶏のから揚げは、我家の特別なメニューになりました。 あれから十五年、レナは、ずっと私達の家族でした。 レナが亡くなって、まだ一週間もたっていないので、ふっとした時、悲しみが込み上げ涙が出てしまいます。 レナは、私達の心にたくさんの物をくれました。 その分だけ悲しみも深いのだと思います。 余命を宣告され、食欲がなくなり、衰弱していくレナが、何を言いたいのか解らず、とても辛かったです。 そんな時でも、鶏のから揚げは、食べてくれたよね。 これからも、私は、鶏のから揚げを食べるたびに、レナを思いだすんだろうね。 レナは、私達の心の中で生き続けるんだよ。 ありがとう、レナ。
芽衣、楽しんでいますか?大好きなご飯はお腹いっぱい食べているかな?食べているよね。 芽衣とお別れして3週間です。未だに信じられないよ。突然だったもんね。 離れた所で生活していたせいで、間に合わなくてごめんね。 悲しくて胸がはりさけそうで・・・ でも、芽衣に出会えたこと、後悔なんてしてないよ。 出会わなかったらこんなにも辛い思いもしなかったはずだけど、後悔なんてありえない。 芽衣からもらった幸せは計り知れないからね。芽衣は本当に本当に優しかったね。 皆が口をそろえて言っていたよ。泣き虫な私をいつも心配して寄り添ってきてくれて涙をなめてくれたよね。 家族以外にも芽衣はたっくさんの人たちに愛されていたね。それも全部芽衣だったからだね。 ご飯が大好きだった芽衣ちゃん。 かがみもちを自分の歯が折れてまで食べた芽衣ちゃん。 まだまだ思い出し涙は出ちゃうけど、芽衣のために強くなるよ。 毎日空に向かって話かけてるよ。 芽衣、愛してるよ。
私の家の紀王ちゃんは、生れた時からアレルギー体質だと言う事でした。 でも初めて子犬を見た時、かわいい目をして私達のところに走り寄って来ました。 でも「一生アレルギーと、たたかわないと」と言われた。 でも引き取り手がないと保健所行きと言われた。 でもつぶらな目を見ていると可愛そうで、引き取って帰ることにしました。 十年間飲み薬、ぬり薬で十年間頑張ってきました。 でも私達年寄りには元気をくれました。 一日中顔の見える所、声の聞こえる所でいました。 夜は私の横で一緒にすやすや安心して寝ていました。 朝夕の散歩が大好きで、キーちゃんキーちゃんと、みんなに人気がありました。 観光客の人にも「写真撮ってもいい?」と、何回も写真を撮ってもらいました。 でも急に肝不全をおこして獣医さんの懸命の治療をしていただきました。 でも、残念ながら天国に旅立ちました。 気が抜けた様にさみしいですが、泣いてばかりいてはいけないので頑張っていきます。
今24歳の娘は小学生の頃から犬を飼いたいとよく言っていました。その願いは中学2年生の時に叶いました。 生後3ヶ月のダルメシアンと出会い飼うようになりました。 とても可愛い顔をしており、名前はみんなから愛されるようにと「ラブ」と名付けました。 猟犬のせいか体はみるみるうちに大きくなりました。 飼い始めに歩行の訓練がうまくできていなかったので散歩をする時によく引きずられ困りました。 家の前を通った人の足を、がぶりひやりとしたこともありました。 またよく吠えるので近所迷惑になるのではないかと気が気ではありませんでした。 しかし賢い一面もあり、家族の足音はわかり他人が来ると吠えるので、番犬としての役割は果たしてくれました。 頭をなでてやったり、お腹をさすってやると気持ち良さそうにして、愛くるしい目でこちらの方を見てくれました。 皆も癒されました。 そのラブも2011年3月にフィラリアで亡くなりました。 天国で安らかに眠って下さい。
昨年の12月に、あなたを天国に送りました。 もっと早くに痛みから解放してあげればよかったと後悔の念がいつまでも消えませんでした。 里親探しのコーナーで「絶対これほしい。」 パパがあなたを抱っこして離さなかったあの日から12年。 甘えん坊のあなたは、私達のベッドの上で丸くなって一緒に眠っていたね。 まるで猫みたいにすりよってきて、足元にでんぐり返って甘えてたよね。 ピレニーズの入ったあなたは大っきいから、おかげでひっくり返りそうでした。 お散歩の時 「ラッキー!ポッポさん!」 「ラッキー!お月さんがきれいだねー!」 冬には水鳥が私達の頭上をバサバサって音をたてて渡って行くのを、あなたは不思議そうに頭をあげて見ていたね。 兄弟のように育ったジョンが今でも時々あなたをさがしています。 日がたつにつれて、悲しみが寂しさに変わってきています。 たくさんの思い出をありがとう。 いつまでも大好きだよ、ラッキー。
昨年八月七日午前七時頃とても暑い朝でした。 私は仕事が休みでした。ラッキーの大好きな散歩に行こうと思い、「ラッキーお散歩に行くよー」と声を掛けた。 いつももすっ飛んで来るのに、のそのそと玄関まで来ても私の傍まで来ませんでした。 仕方がないので、抱っこして何時もの散歩道まで行きました。 下に降ろしたら一歩も歩きません、しんどいのかと思い、また抱っこして家への帰り道、草むらに降ろしてみました。 すると、ボテッとこけてしまいました。 具合が悪いのかと思い、かかりつけの病院に連れて行こうと、また抱っこして家に帰ろうとしている時、玄関前でラッキーの首がダラッと私の腕に巻きつきました。 すぐ、ラッキーのベッドに寝かせました。私の顔をじっと見つめて、虫の息でした。 私は妻が病院に電話している間ラッキーの顔を撫でていました。 私を見つめたまま息を引き取りました。 私はラッキーが大好きです。天国でまた逢います。
散歩が大好きだった。 ぐいぐいと引っ張るのに、時々振り返る表情を、あの道を歩く度に思い出す。 14歳の夏、その大好きな散歩に行けなくなった。 そんな日がいつか来るとはわかっていたが、認めたくなかった。 どんどん弱っていって、あっという間に立ち上がるどころか顔を上げる力も無くなって、一日ぐったりと横になっている。 完全介護が始まった。 餌はドロドロのレトルト。 しかし餌も水も顔を持ち上げて起こしてあげないと食べることも飲むこともできない。 2~3時間に一度寝返りをさせてあげないと肺に水が溜まってしまう。 ワン、とも鳴けなくて変な声で呼びかけてくる。 けれど何をして欲しいのか、何を言いたいのかわからなくて、わかってあげられないことが悔しくて涙が出そうだった。 それでも一緒に居られるのは幸せだったのに。 もっと散歩にいけばよかった。 撫でてあげればよかった。 もう出来ないことばかりで、今でもずっと寂しいままだ。
平成23年7月19日彼女は私の横で眠る様に息を引き取った。 5歳でした。 彼女と言うのはフェレットの愛娘ヴィヴィちゃんです。 覚悟はしていたケド・・・ やっぱりショックだった・・・ 3ヶ月前、お腹の調子が悪く、あまり食欲もなかったので病院に連れて行った所、お腹と腿のあたりに腫瘍がいっぱい見つかりました。 お医者さんに抗癌剤を進められたけど・・・ その時はそんな事考える事なんて出来る訳ない。 告知された瞬間、頭をハンマーで殴られた様な気分でした。 ショック!で、ショック!で涙が止まりませんでした。 彼女がいなくなるなんて考えた事もなかった。 抗癌剤治療はしませんでした。 小さな体でそんな治療に耐えられる訳がない。 その後、彼女が弱っていく姿を毎日みまもった。 亡くなる一週間前はほとんど後足が歩けない状態でした。 それでも、私の所まではってきて抱っこをねだりました。 抱っこしてあげると安心して眠っていました。 あれから、もう1年がきます。 未だに、お骨は傍においています。 無理して忘れるつもりもありません 今でも彼女に出逢えた感謝とありがとうの気持ちでいっぱいです。 ヴィヴィちゃんとの思い出は私の一生忘れる事のない宝物です。 「ヴィヴィちゃん、生まれ変わってまた一緒に遊ぼうネ。」
平成12年4月、我が家の二男ラッキーがやってきた。 会社の人との花見の時に連れられてきていた子犬を見て私たち家族は、「犬」を飼うことを決意し翌日ショップを訪れた。 そこで出会った我が家の二男は全員一致の一目惚れで帰りの車では家族として同乗していた。 そんな二男は、長男の弟として毎日を元気に過ごし、家族に癒しを与え、長男の多感な時期を一生懸命支えた。 平成23年にその長男が大学生になり家を離れてから、少しづつ何かを失ったように、老いを隠せないようになった。 そんな中、平成23年11月19日次男が亡くなった。 以前からヘルニア気味で時々治療はしていたが、普段の生活には何も問題がなかったのにヘルニアが原因で亡くなった。 訃報を聞いた長男は急遽帰省し、命の火が途絶えた弟を見て号泣した。 私たち家族は分骨を化身として持ち歩くことでそのことを乗り切りながら、いつまでも二男を忘れない。
今から十六年前、知人の家から帰る途中お寺の門前を通り過ぎる時に「ミャーミャー」と子猫の鳴き声が聞こえた。 すぐさま降りて確認すると雄猫で、まだ目の焦点もあっていない生れたばかりのペルシャとトラの雑種猫であり、このままでは死んでしまうと家に連れて帰った。 次の日から子育てが始まった。 哺乳瓶を買ってきてミルクを作り飲ませ、日中家を空けて仕事をしているので、毎日、今日は生きているのだろうか? 今日は生きているだろうか? と心配の日々が続いた。 それからすくすくと育ち十年の歳月が流れ、ある日の事たまちゃんがぐったりしていた。 慌てて病院に連れて行くと「尿路結石」。 採血でも腎機能を測定すると機能もかなり低下していて一日入院して透析を行った。 家に帰ってから抗生剤を飲ますのに悪戦苦闘の日々で、主人の手はキズが絶えませんでした。 三回位尿路結石を繰り返し病院通いの日々。 たまちゃんは、病院でも大人しく、獣医さんも治療し易いと褒めてくださってました。 そして十五年の健診に行った時に、別に悪いところはなかったにもかかわらず獣医さんに、「いつお別れの時がきてもおかしくはありません。心の準備をしておいてください」と言われた。 それから数ヶ月、まさかこんなに早くお別れの日がくるなんて! 丁度お正月だったので、行きつけの病院に電話もつながらず、仕方なしによその病院へ行くこととなった。 風邪をこじらせ胸膜炎でかなり悪い状態だった。 最後まで家でみとろうか? 無駄でも治療しようか? かなり迷ったが、でもできる限りの治療をしてもらおうと決心した。 ほんの二日ほどの治療でしたが。 お見舞いに行った時、「たまちゃん」と声をかけると「ミャー」と鳴きながら私達の方に動けないはずなのに寄ってこようとした姿、それが生前のたまちゃんの最後の姿でした。 いまも忘れません。 その夜中病院からの電話でたまちゃんの死を伝えられた。 お迎えに行くと、きちんと棺に入れていただいてあり、苦しんだ表情ではなく安らかな表情でした。 ペットピアのパンフレットをいただき、ペットピアでお葬式、初七日、四十九日、一周忌と法要を行い、納骨堂で大切に供養していただいてます。 私達も週一回お花を持ってのお参りはかかしません。 たまちゃんにとって、ペットピアは第二の故郷です。 これからもずっと供養していきます。 我が子同様に可愛かったたまちゃん、天国からいつまでも私達を見守ってくださいね。
美しい朝の光に木の葉が 心地よく揺れる木漏れ日に ナナの可愛い目が光る 軽やかな足取り心の リズムかなもう一回り 行き交う人の顔が 思いなしか和む 平成七年二月から家族の一員になり、十四年三ヶ月。家族を結ぶ不思議なたからものでした。 家に来た時は、顔も触らせず「小さな口で思いきりガブリとかみつき、可愛い顔に似ずもうこの時からナナちゃんが一番と順位づけていたのでしょうか。 お母ちゃんには、リボンを付けさせてくれたので「この子は女の子」の証に沢山リボンを作りました。季節の洋服もお母ちゃんお手製のものしか着ないので、贈り主に申し訳なく思いました。 家族の会話は理解でき、ゴルフで帰宅の遅いお父ちゃんを迎いに行こうとせがんだり、夜の行事で遅くなったお母ちゃんを、玄関で待っていてくれました。その時は決まって「ナナちゃんが待っちょんじゃあ、はよう帰ってやれ」お父ちゃんにお叱りを貰っていました。 お母ちゃんが病気入院した時は、ストレスで足の毛が抜けて赤い皮膚が見え、痛々しかったけれど、お母ちゃんの病気回復と共にナナちゃんの症状も回復し、ホッとしました。 加齢と共に心臓肥大、足の筋力が落ちるなど、予測しない病気になりましたが、ナナちゃんに最後まで心地よい日々を過ごしてもらおうと決心しました。散歩も抱っこにかえました。お話しながら一日も休まずいつものコースを歩いていると、「子供かと思うたら犬か」と通り過ぎる人に声を掛けられました。ナナちゃんとお別れをする二日まえのことでした。 本当に元気をアリガトウ良い思い出をアリガトウ ナナちゃんは、自分が犬だと思っていなかったのでそちらでお友達が出来たか心配です。 ペットピアのナナちゃんと涙しないで別れることができるかしら? お父ちゃん・お母ちゃん・おにいちゃんを見守って下さい。
2002年4月16日むっくとの出会い。 シーズー犬推定四~六歳。首輪もリードもつけたまま警察に保護されていました。 保健所にも、飼い主からの申し出はありませんでした。おとなしく、吠えることもしませんでした。 ものすごいノミと皮膚病にもなっていました。 皮膚は赤くただれ、痒がりました。 そんな状態でもしっぽを振り、お愛想をする姿を見て思わず、目が熱くなりました。 むっくと名付けて、動物病院へ行きました。 副腎皮質ホルモン剤、抗生物質、痒み止めが出ました。 ノミに噛まれて引っかき、それが化膿していました。痒いので、床に体をこすりつけ転げました。 ずっと外での生活だったようでフィラリアに感染していました。 少しの感染ならば、それ以上増やさないように様子をみますが、すでに大量に感染している為、手術をしなければ、今年の薬は飲めないとのことでした。 ため息と、怒りとを抱きながら、道すがら、何もわからず、首をかしげて、私を見るむっくがあまりにも不憫で、赤くただれた皮膚をなでました。 つぶらな瞳がいじらしく、頭をなでる・・・ 可愛い・・・ トコトコ歩く姿が一層いとおしい・・・ あのまま、保健所へ行っていたら、今はもうこの世にいないはず。 初めてトリミングして下さったトリマーさんは、むっくがあまりにおとなしく素直なので、大ファンになってくれました。 いままでの環境を伝えると涙ぐんでくれました。 小さな命、たったひとつの命、たとえ動物でもかけがいのない命、大切に思います。 見上げれば、青空、遠くに電車の音、八重桜が満開、風が私達を優しく包み、むっくとの時間が、穏やかに流れていきます・・・。 この世に生を受け、飼う人によって犬もいろいろな形での過ごし方がありますね。 むっくが、手術によってもう少し生かされる寿命ならば受け入れてあげよう・・・。 パンジーの花びらは、雫で重たげ。金木犀の柔らかい新芽が、むっくとの出会いの季節となりました。 この出会いから十年が過ぎました。 2012年5月5日は、お客様があり忙しくしていましたが、むっくはおとなしくいつもの生活でした。 5月7日夕方から呼吸が少し荒くなり、八日は病院へ行きました。 肺に水が溜まっているということなので利尿剤を飲ませました。 9日、日中はいつものように過ごしていましたが夕方から息が荒くなり、21時に苦しむことなく、一番の仲良しだったシーズーのラブの所へと駆け足で虹の架け橋へと渡って行きました。 同じく飼い主に見放されて我が家にやって来たラブは、2012年4月17日に天に召されたばかりでした。 我が家にやって来て、数回しか吠えることのなかったむっくは、いつも穏やかで優しい男の子でした。 むっくとの楽しい思い出は、かけがえのないものとなりました。 一度も困らせることがなかった可愛いむっくとの日々。 ラブとの微笑みのツーショット姿は、たくさんの写真に残されて、私の宝物となりました。
